2012年8月31日金曜日

北海道で買ってきたまりもは20年くらい生きてます。

 日本美術教育学会編集部の仕事で、滋賀に行ってました。石山寺のひなびた旅館に泊まりました。何とも豊かな時間。こんな旅館には、日本酒をちびちびといくのが合います。
 栗が落ちていました。美しい色と形です。まだまだ暑いですね。

2012年8月29日水曜日

切ない出会い

 この夏の実習巡回指導は15箇所。島根、兵庫、大阪、和歌山。いろんな保育所、幼稚園、施設、小学校、そして子供たちや先生方との出会いがあります。もちろん、実習している学生たちの様々な表情にも出会います。
 今日は大阪市内。京橋の室内人工池に美しいアオスジアゲハが浮かんでいました。飛んでいるのではないのです、水に浮かんでいました。何だか気持ちよさそうに見えたのは残暑のせいでしょうか。放置して去ってしまいました。しまった、苦しんでいたのかも・・・。申し訳ないです。これは切ない出会いでした。

2012年8月27日月曜日

古事記編纂1300年

 この8月は半分外泊です。忙しい夏です。
 今回の島根は、いつもの「島根県保育所(園)・幼稚園造形教育研究会」第8回夏季研修会で訪れたのです。o-oはこの会を立ち上げて以来、ずっと講師を務めています。今回のテーマは、「画一化にもなく、放任でもなく」。指導者が子供を使って自分が描きたい絵を描かせるような画一化をどう避けるのか、あるいは誤った児童中心主義的な考えで、結局は何も導かない放任をどう避けるのか。意図的・計画的な保育の現場で、保育者のねらいが子供たちのやる気に変換されるような指導の追究です。県内から100名の保育者さんが集まりました。年齢別の分科会もたいへん盛り上がりました。
 次は、11月の同作品展審査会。先生方、また実践を持ち寄って語り合いましょう。

まめぞうはみんな元気。

 島根女子短大教員時代に担任していたクラスの名前は「まめぞう」。彼女たちが卒業して、もう12年目。前回の同窓会から6年半の月日が流れました。17人のまめぞうに、何と21人の子供たち。上は小学校3年生から、下は11ヶ月まで。短大近くの貸し切り会場は、子供会状態!
 これほど嬉しいことはありません。幸せな気持ちでいっぱいです。しゃべってないと涙がこぼれてくるので、ひたすらしゃべっていました。これだけの時間が流れれば当然こういった同窓会になることは、かつてでも想像しようと思えばできたはずです。ですが、それが現実になったということに新たな感動がありました。感無量とは、こういうことを指すのでしょうね。
 ほとんどが保育の現場に出ていますので、子供たちの扱いはもちろんプロ。子供たちの笑顔と歓声が絶えない会となりました。ありがとう、まめぞう。

夜も研究

 松江に行けば夜に必ず立ち寄る場所があります。国際宇宙・生物研究所。昼も研究、夜も研究。所長さんと所員さんとは、顔なじみ。長い付き合いです。
 o-oがまさか、理系の研究所に出入りしているとは!研究所名と「松江」で検索してみてください。今度一緒に行きませんか?

2012年8月23日木曜日

子供と美術と教育と。

尼崎駅から大学への回遊路は、夏の日差しの照り返しが強く、たった5分ですが、汗が噴き出してきます。そんな残暑ですが、神戸、大阪、奈良などから保・幼・小・中・高の先生方が集まってくださいました。教員免許状更新講習。o-oは、「子供と美術と教育と。」と題した講座を持ちました。たいへん熱心に聞いてくださいますので、o-oも心を込めて、いちばんの気持ちで語らせて頂きました。
 6時間、ぶっ通しでの講義です。美術教育の講座なのに、実技はなしです。そんな講座に、極めて熱心に取り組んでくださる先生方に脱帽です。ある先生が、感想に「6時間だけでは短すぎた」と書いてくださいました。とても嬉しく思いました。
 「美術」は、破壊と創造の「拡散」の歴史を持ち、「教育」は、限られた自由と時間の効率的運用という「収束」の側面を持っています。「美術教育」とは、まさにそれ自体がパラドックスを有しているのです。この講座では、その両語の止揚に挑みました。幼児造形教育を中心として語ったその挑戦は、一定の成功を収めたと考えています。
 先生方、一日お疲れさまでした。2学期からの子供たちを、どうぞよろしくお願いいたします。

2012年8月21日火曜日

感性と知性

 今年の日本美術教育学会の学術研究大会は、愛知芸術文化センターで開催されました。200名に近い研究者が集まっての、熱い2日間でした。〜響きあう感性と知性〜。感性を育む美術教育ですが、いえいえ知性もしっかり育むのです。両者は本来区別できるものではありません。そんな中、美術教育が、感性こそを育むのだと主張してきたところに、美術科の意義がじゅうぶんに理解されない罠があったと言えましょう。
 o-oは編集部員で、大会記録の仕事を担っているものですから、特に音声録音をミスしないようにしなければなりません。後に、「テープ起こし(今はもうテープではないですが、他に呼び方を知らない・・・。)」という凄まじい仕事が待っています。チームを組んで、連携しながらやっているので、たいへんですが充実した仕事です。
 1年半前までいた名古屋です。なつかしさというよりも、久しぶりに帰って来たという感覚でした。前日入りして毎晩、大切な仲間と飲みながら語り合いました。

2012年8月16日木曜日

フィリピン、バターン半島カナス岬

お墓参りをしました。戦死された祖父の弟・勝治さんのお墓にもいつものように。子供の頃、勝治さんのお墓を参る度に、「お兄さん」は遠いフィリピンの激戦の中を勇ましく走っておられたのだろうと思っていました。そこに「かっこよさ」さえ見ていました。その「お兄さん」の歳に追いついたとき、o-oの中に戦慄が走ったように感じました。その歳で、それほどまでの過酷な状況におかれた、その心情はいかなるものだったのでしょう。
 お墓参りを重ねていくうちに、今はもう勝治さんの歳をはるかに超えました。25歳での戦死。あまりにも、あまりにも切ないのです。その意味が、o-oが歳を重ねていくにつれ、大きくなっていきます。
 この夏もたっぷり野菜が収穫できました。

2012年8月13日月曜日

交流の花

中国・竜井市の田舎、三合小学校の子供たちと、ハンドペインティングの活動をしました。関西国際大学の学生たちと地元の児童、そしてo-oも混ぜてもらって、描いた木にかわいい手形の花が咲きました。
 

2012年8月11日土曜日

o-o武勇伝?

 別に何の変哲もない赤ラインでしょう。引かれたラインは、物理的にたいした意味はありません。ところがこの線のこちらと向こうでは、社会的に決定的な違いがあります。それを挟んで双方は全くの別世界です。
 赤ラインよりこっちが中国、赤ラインの向こうは、何と北朝鮮です。一歩でも向こうには行けません。後から押されたらどうしようかと思います。
 ここは観光地になっているところなので、このように写真を撮っても構いません。ですがそうでないところでo-oはおもむろにカメラを北朝鮮側に向けたのです。そうすると背の高いムキムキ(そうな)北朝鮮の軍人さんがかつかつと近づいてきました。目の前30cmくらいに迫ってきて、敬礼をします。そして握手を求めてきます。何だか友好的な感じがします。が、その直後「パスポートを見せろ」と。パスポートは返ってくるだろうか、カメラを没収されるのではないだろうかとドキドキしました。ガイドさんが仲に入ってくれて事なきを得ました。ほっ。
 北朝鮮の軍人さんと握手をしたo-o。なかなかレアだと思いません?もちろん軍人さんの写真を撮るのは言語道断です。ブログに載せたいですねえ。 

北朝鮮が展望できる小学校へ

 8/6〜8/10、サービスラーニング中国引率で、延吉に行ってきました。
 吉林省延吉市は延辺朝鮮族自治州で、朝鮮族が人口の過半数を占めています。中国でありながら、街にはハングルが溢れていて、全ての看板が、上部にハングル、下部に中国語の表記になっています。食べ物も主に朝鮮料理。地理的には、北朝鮮やロシアとの国境近くです。
 延吉から、さらに北朝鮮との国境近くの”三合”という村の小学校に行きました。全校児童22名の小さな小学校です。そこで、関西国際大学の学生たちが、ゲームや折り紙、絵を描くこと、日本の外遊びなどを教えました。延辺大学外国語学部日本語学科の学生ボランティアにも助けて頂き、充実した活動が展開できました。
 写真は、まるごとニワトリです。美味です。

2012年8月5日日曜日

みなと神戸は南風、南風♪

今夜は、ポーアイみなとじままつりでした。近代的な高層ビルに囲まれたやぐらというのは新鮮です。
 振る舞われた樽酒の木の香りが、焼いた干物のはたはたと見事にマッチしていました。

たまや〜

バルコニーから、みなとこうべ海上花火大会が見えます。ハイネケンを飲みながら、ナッツをつまみながらの鑑賞です。マンションの他の部屋からたくさんの歓声が聞こえます。
 ポートアイランドはたいへんな人出です。車やバスもものすごい数です。ポートラーナーもすし詰め状態でした。22万人が見上げたそうな。

2012年8月3日金曜日

硬い桃が教えてくれる。

山梨から桃が届きました。元同僚で、現在山梨在住の先生からです。
 山梨の桃がとても硬いのをご存じですか?それはそれは、誇張ではなく、カリカリです。ケンミンshowでもやっていましたが、山梨県民にとってはこれこそが桃らしいのです。
 当初は違和感がありました。まったく食べ慣れていない硬さですから。しかし、自身にすりこまれた桃のイメージを横においてみます。そして、桃だと考えずに食してみます。すると、新しい味が立ち上がってきます。食感よし、酸味よし、甘さよし。その後、これも桃なのだと認識してみます。そうすることで、桃の美味しさというものが拡大している自分に気づきます。
 「美」も同じことなのでしょう。自身の眼のフィルターを外してみることで、それまではそれほど美しいと思っていなかったものが美しく見え、あるいはこんなところに美など存在しないと思っていたところに美しさがあったりします。固定的な見方や感じ方は怖いものです。世界が狭まってしまいます。美しいと思い込んでいるものだけが美しいわけではないのです。また、あらかじめ美しいものなどこの世界にはないのです。美は発見するものです。